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いきなりこれだ。
私は自重しない。死ぬ時は前のめりと決めている。
さて、冲方丁は私の大好きな作家のひとりである。
その作家がハウツー本を出したのなら買うだろう。ファンとして当然だ。
例えば、菊池秀行先生がハウツー本を出しても私は買うにきまってる。何故なら、如何にすればあの突拍子も無く奇妙奇天烈な設定をこね繰り出してくるのかはファンとして非常に気になる事であり。その謎の発端を解明する鼻薬にでもなるのなら手を出さずにいられないのは自明だからだ。
ハウツー本の類いは三島由紀夫なんかも出版している。しかし、三島由紀夫はハウツー本片手に小説を書く様な人間は軽蔑する類いの作家であったのだろうか、肝心の創作論には殆ど触れず、『お前ら書く前に、読む方がなってないよ』とばかりに読者を引っ掻き回しているだけである。うん、面白い。
冲方先生の書いた本書は、三島御大の様に読者に対して失礼ぶっこきまくるような事はしていない。
むしろ、逆。
『小説を書く』という事は単なる技術に過ぎず、世間一般がこの技術を習得する事により、文芸分野の裾野が広がり、作家も読者もより幸せになれると説いている。
それはまぁそうかもしれない。同じ道の人間は多いに越した事は無い。
とは言え、この本を一読したらいきなり一冊本を書けるかと言えばそうではない。世の中そんなに甘く無い。当たり前だけど。
与えられるのは断片的な技術だけだ。
しかも世間一般の人間が考える様な『巧い文章のテクニック』ではない。
もっと抽象的な『どうすれば頭の中の観念に実態を与えてストーリーとして活用できるか』という方法論である。
ここに私は違和感を覚えた。
たぶん、恐らくだが、小説を書きたい人間がまず第一に悩むのは『テクニック』なのだ。
どうすれば巧みに情景を描写できるか。或いは、感動を与えられるのかが主要なのだ。たぶんね。
そうじゃない。私はまさに『どうすれば頭の中の観念に実態を与えてストーリーとして活用できるか』を知りたいんだという人には本書はお勧めできると思う。しかしそのレベルに達してる人間というのは、己の方法論というのを既に身に付けている場合も往々にしてある(自覚してない場合もあるけど)ので参考程度にしかならないかもしれない。
でもって、『テクニック』が何なのかを知りたければ作文教室に行くのが手っ取り早いんじゃないか、というのが私の率直な意見なのだ。うん。
この本の最大の見所。エッセンスは71頁からの数頁に渡って凝縮されている。
すなわち『創作の三項目』『小説の五項目』『執筆の六段階』である。
なんかもうこの名付け方がメチャクチャかっこいい。この点でやはりウブコックは只者では無い。
創作の三項目は、知識・技術・感性。
小説の五項目は、主題・世界・人物・物語・文体。
執筆の六段階は、能書き・種書き・骨書き・筋書き・肉書き・皮書き。
『創作の三項目』『執筆の六段階』は実際の本の説明に譲るとして、面白いのは『小説の五項目』。
まずテーマありき。そして世界があり、その中の人物がいて、物語を織りなす。
文体――つまりは、『文章のスタイル』という意味だろう――が底辺になってるのが興味深い。
やはり文章のスタイルというのは、読者とのインターフェース的な側面が強いのだ。いわば『ガワ』の部分。だからたぶん、小説、というか、モノを書こうとする人間は最初に『文章のスタイル』を気にするのだろう。
気持ちは分かる。けどやっぱりそれは罠なのだ。文体は所詮、外見にしか過ぎない。
例えば、冲方先生の初期長編「ばいばいアース」は『主題』『世界』に重きが置かれている。
そして、ハイデガーの「存在と時間」を読んで感銘を受けて何故かそれでチャンバラをしようとしたのが「ばいアス」なのだ。なんかもう凄いよね。
「ばいアス」ではファンタジックな世界が、それはもう緻密に描写されている。独自の設定。独特の世界観のオンパレードである。そこにテーマ(存在と時間)が加わって、それに沿う形で人物が物語を紡いでいる。文体はもう完全に二の次である。
逆に「マルドゥックヴェロシティ」以降、「スプライトシュピーゲル」や「オイレンシュピーゲル」にも採用され、作品を特徴づけている=や/を多用した文体は、十年後も通じる小説を書くために必要だったからと説明されている。
読み難いとか訳ワカンネと批判されてもどこ吹く風。普通の文体ならば読んでくれたであろう読者もばっさり切り捨てての大決断。いやもうねこういう新しい事をやるのは凄いと思うよ。後続が真似しても二番煎じになるだけだし。
実際、この新型ウブコック文体というインターフェースは、物語という上位レイヤーに加速感を与える事に多いに成功している。「ばいアス」時代の細かいけどもまどるっこしい書き方では、不可能な芸当だろう。
恐らくは、速度の必要な『物語』に応じて生まれた『文体』なのだろうと思う。(文体が物語を生んだとも考えられるが)
でも『文体』が『人物』や『世界』や『主題』を生むとは思えない。
そういう意味でもウブカタ式の『小説の五項目』は、核心を捉えていると思う。
さて、面白いのはこの式を二次創作に当てはめてみる場合である。
二次創作なのだから、少なくとも『世界』『人物』はほぼ固定されている。
となると変数は『主題』『物語』『文体』である。
いや、『主題』は緩く制限されている可能性もある。となると、必然的に自由に動かせるのは『物語』と『文体』だけだろうか?
無論、何の二次創作をするかによってこの変数の限界値は変わってくるだろう。
あえて『世界』『人物』など固定されている数値を動かして見ても面白い。
どうでしょう。
「冲方丁のライトノベルの書き方」、面白い本だとは思いませんか?
私は自重しない。死ぬ時は前のめりと決めている。
さて、冲方丁は私の大好きな作家のひとりである。
その作家がハウツー本を出したのなら買うだろう。ファンとして当然だ。
例えば、菊池秀行先生がハウツー本を出しても私は買うにきまってる。何故なら、如何にすればあの突拍子も無く奇妙奇天烈な設定をこね繰り出してくるのかはファンとして非常に気になる事であり。その謎の発端を解明する鼻薬にでもなるのなら手を出さずにいられないのは自明だからだ。
ハウツー本の類いは三島由紀夫なんかも出版している。しかし、三島由紀夫はハウツー本片手に小説を書く様な人間は軽蔑する類いの作家であったのだろうか、肝心の創作論には殆ど触れず、『お前ら書く前に、読む方がなってないよ』とばかりに読者を引っ掻き回しているだけである。うん、面白い。
冲方先生の書いた本書は、三島御大の様に読者に対して失礼ぶっこきまくるような事はしていない。
むしろ、逆。
『小説を書く』という事は単なる技術に過ぎず、世間一般がこの技術を習得する事により、文芸分野の裾野が広がり、作家も読者もより幸せになれると説いている。
それはまぁそうかもしれない。同じ道の人間は多いに越した事は無い。
とは言え、この本を一読したらいきなり一冊本を書けるかと言えばそうではない。世の中そんなに甘く無い。当たり前だけど。
与えられるのは断片的な技術だけだ。
しかも世間一般の人間が考える様な『巧い文章のテクニック』ではない。
もっと抽象的な『どうすれば頭の中の観念に実態を与えてストーリーとして活用できるか』という方法論である。
ここに私は違和感を覚えた。
たぶん、恐らくだが、小説を書きたい人間がまず第一に悩むのは『テクニック』なのだ。
どうすれば巧みに情景を描写できるか。或いは、感動を与えられるのかが主要なのだ。たぶんね。
そうじゃない。私はまさに『どうすれば頭の中の観念に実態を与えてストーリーとして活用できるか』を知りたいんだという人には本書はお勧めできると思う。しかしそのレベルに達してる人間というのは、己の方法論というのを既に身に付けている場合も往々にしてある(自覚してない場合もあるけど)ので参考程度にしかならないかもしれない。
でもって、『テクニック』が何なのかを知りたければ作文教室に行くのが手っ取り早いんじゃないか、というのが私の率直な意見なのだ。うん。
この本の最大の見所。エッセンスは71頁からの数頁に渡って凝縮されている。
すなわち『創作の三項目』『小説の五項目』『執筆の六段階』である。
なんかもうこの名付け方がメチャクチャかっこいい。この点でやはりウブコックは只者では無い。
創作の三項目は、知識・技術・感性。
小説の五項目は、主題・世界・人物・物語・文体。
執筆の六段階は、能書き・種書き・骨書き・筋書き・肉書き・皮書き。
『創作の三項目』『執筆の六段階』は実際の本の説明に譲るとして、面白いのは『小説の五項目』。
まずテーマありき。そして世界があり、その中の人物がいて、物語を織りなす。
文体――つまりは、『文章のスタイル』という意味だろう――が底辺になってるのが興味深い。
やはり文章のスタイルというのは、読者とのインターフェース的な側面が強いのだ。いわば『ガワ』の部分。だからたぶん、小説、というか、モノを書こうとする人間は最初に『文章のスタイル』を気にするのだろう。
気持ちは分かる。けどやっぱりそれは罠なのだ。文体は所詮、外見にしか過ぎない。
例えば、冲方先生の初期長編「ばいばいアース」は『主題』『世界』に重きが置かれている。
そして、ハイデガーの「存在と時間」を読んで感銘を受けて何故かそれでチャンバラをしようとしたのが「ばいアス」なのだ。なんかもう凄いよね。
「ばいアス」ではファンタジックな世界が、それはもう緻密に描写されている。独自の設定。独特の世界観のオンパレードである。そこにテーマ(存在と時間)が加わって、それに沿う形で人物が物語を紡いでいる。文体はもう完全に二の次である。
逆に「マルドゥックヴェロシティ」以降、「スプライトシュピーゲル」や「オイレンシュピーゲル」にも採用され、作品を特徴づけている=や/を多用した文体は、十年後も通じる小説を書くために必要だったからと説明されている。
読み難いとか訳ワカンネと批判されてもどこ吹く風。普通の文体ならば読んでくれたであろう読者もばっさり切り捨てての大決断。いやもうねこういう新しい事をやるのは凄いと思うよ。後続が真似しても二番煎じになるだけだし。
実際、この新型ウブコック文体というインターフェースは、物語という上位レイヤーに加速感を与える事に多いに成功している。「ばいアス」時代の細かいけどもまどるっこしい書き方では、不可能な芸当だろう。
恐らくは、速度の必要な『物語』に応じて生まれた『文体』なのだろうと思う。(文体が物語を生んだとも考えられるが)
でも『文体』が『人物』や『世界』や『主題』を生むとは思えない。
そういう意味でもウブカタ式の『小説の五項目』は、核心を捉えていると思う。
さて、面白いのはこの式を二次創作に当てはめてみる場合である。
二次創作なのだから、少なくとも『世界』『人物』はほぼ固定されている。
となると変数は『主題』『物語』『文体』である。
いや、『主題』は緩く制限されている可能性もある。となると、必然的に自由に動かせるのは『物語』と『文体』だけだろうか?
無論、何の二次創作をするかによってこの変数の限界値は変わってくるだろう。
あえて『世界』『人物』など固定されている数値を動かして見ても面白い。
どうでしょう。
「冲方丁のライトノベルの書き方」、面白い本だとは思いませんか?
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