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本屋でたまたま発見して拿捕してきました。
帯の部分には夢枕獏先生のコメントが書かれており、たぶんマッチョな小説なんだろうなと予想していたら、その通りでした。色んな意味でマッチョ。
ストーリーはあって無い様なものです。
冬眠し損ねて凶暴化したヒグマが、人間を襲いまくるというお話。
物語開始早々、ヒグマに襲われた死体が出てきます。イントロダクションは一切なし。いきなりアクセル全開です。
で、山小屋で遭難。ヒグマが遅いに来ます。人の良さそうなフィンランド人がいきなり生贄に。人間の腕なんかヒグマの手に掛かれば、一撃で千切れます。クマーは凄い馬鹿力なのです。そんで胴体咥えて、ぶん回します。腕とか足とか滅茶苦茶になります。でも頭と心臓は無事なのでまだ生きてます。顔とか引っ掻かれて、噛まれます。皮膚がべろり。クマーは人間の服を引き千切ります。そんで内臓たっぷりの胴体をがぶり。人間弱いくせに、中々死ねません。生きたまま内臓とか食われます。
と、こんな調子でヒグマが人間どもを餌食にしていきます。
妊婦相手でも容赦しません。鬼畜です。というか、クマですから仕方ありません。
兎に角、クマの種族としてのスペックの高さが強調されています。読んでる方は毎頁、クマの恐ろしさを叩きこまれます。
なんという熊小説。
一応、最後でクマーを倒す訳ですが。ブルドーザーで。
なんかもう人間とか瀕死です。そりゃそうでしょう。
途中、雪の中でサバイバルとかしてますが、読んだ後はクマーの事しか憶えてません。
もう北海道なんていかねぇ!!
特に、クマ牧場のある登別なんて死んでもいかねぇ!
帯の部分には夢枕獏先生のコメントが書かれており、たぶんマッチョな小説なんだろうなと予想していたら、その通りでした。色んな意味でマッチョ。
ストーリーはあって無い様なものです。
冬眠し損ねて凶暴化したヒグマが、人間を襲いまくるというお話。
物語開始早々、ヒグマに襲われた死体が出てきます。イントロダクションは一切なし。いきなりアクセル全開です。
で、山小屋で遭難。ヒグマが遅いに来ます。人の良さそうなフィンランド人がいきなり生贄に。人間の腕なんかヒグマの手に掛かれば、一撃で千切れます。クマーは凄い馬鹿力なのです。そんで胴体咥えて、ぶん回します。腕とか足とか滅茶苦茶になります。でも頭と心臓は無事なのでまだ生きてます。顔とか引っ掻かれて、噛まれます。皮膚がべろり。クマーは人間の服を引き千切ります。そんで内臓たっぷりの胴体をがぶり。人間弱いくせに、中々死ねません。生きたまま内臓とか食われます。
と、こんな調子でヒグマが人間どもを餌食にしていきます。
妊婦相手でも容赦しません。鬼畜です。というか、クマですから仕方ありません。
兎に角、クマの種族としてのスペックの高さが強調されています。読んでる方は毎頁、クマの恐ろしさを叩きこまれます。
なんという熊小説。
一応、最後でクマーを倒す訳ですが。ブルドーザーで。
なんかもう人間とか瀕死です。そりゃそうでしょう。
途中、雪の中でサバイバルとかしてますが、読んだ後はクマーの事しか憶えてません。
もう北海道なんていかねぇ!!
特に、クマ牧場のある登別なんて死んでもいかねぇ!
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知っているつもりでいることは世の中多い。
例えば、ガリレオ=ガリレイはどうだろう。
「それでも地球は動いている」で有名なこの科学者は、旧弊で腐敗しきった中世ヨーロッパのキリスト教権力によって、その科学的功績を歪められ、白紙撤回させられた悲劇の天文学者として知られる。
と、同時に、中世のバチカンが如何に横柄で、客観的な事実に対しても、それを頑として認めず、相変わらず聖書を振り回して人々の知的自由を束縛していたかの歴史的な証拠としてよく槍玉に挙げられる。
しかし、事実はそう単純ではないみたいだ。
ガリレオを跪かせた当人、教皇ウルバヌス8世は元々ガリレオのパトロンであり、友人だったという。
さらに、非プトレマイオス的な(つまりコペルニクス的な地動説)を『数学的』に教える事は当時も認められていた。ただ、それを神や天地創造と結びつけるのはご法度とされていた。勿論、バチカンの権威に関わるからである。
さて、バチカン的な権威というのは当時、とてつもなく強大なものだった。世俗的な権威では勿論、広大な土地を所有し、政治に干渉する事さえできた。しかし同時に、とてつもなく脆いものでもあった。教皇には、王権の様な血の繋がりが無く、選挙で選ばれた。つまり、バチカンの中で生き残るのに必要なのは政治力だった。
バチカンは体裁を重んじる。トップの教皇なら尚更である。
だがそれに反抗する男がいた。
我らがガリレオである。
ガリレオは『天文対話』を発表。
その中で地動説を披露した。
しかし、その発表の仕方が如何にも不味かった。
もう一度言うが、バチカンは地動説の提唱自体を禁止はしていなかった。
平たく言えば、形而上学的な議論と、実際の科学的な議論は別モノであって、教会の権威を傷つけない限りはこれを許していたのだ。つまり一般的に思われているほど、中世のバチカンは科学に狭量だった訳では無いようなのだ。
なのにガリレオは教会に対して挑発的とも言える内容で『天文対話』を発表してしまった。
具体的に言えば、作品中に出てくる『シンプリチオ』(頭の中が単純=シンプル)という登場人物をどうやら教皇自身をモデルにしてしまったらしい。
この、バチカンという政治家集団のお偉いさんを刺激したのが不味過ぎた。
ガリレオ的には、ウルバヌス8世がパトロンであり友人でもある事で大目に見て貰えるという腹積もりもあったのかもしれない。
が、コケにした相手が悪過ぎたらしい。ガリレオは軟禁生活を強いられる事になる。
つまり、ガリレオは反科学の総本山であるバチカンによって無理やり自説を捨てさせられた、というよりは、
割と科学には寛大だったけども、権威を傷つける人間には容赦しなかった権力者たちによって社会的に抹殺させられたというのが本当なのかもしれない。
ガリレオは性急過ぎた、というのが専門家の間での意見でもあるらしい。
『天文対話』をもっと穏便な書き方をしていたら。或いは、バチカンに対して根回しを十分に怠らなかったら、軟禁生活を強いられるような事は無かったかも知れないという訳である。
えー、半分はガリレオも悪い、と。
ガリレオ=ガリレイ、歴史に名を残す偉大な人物ではあるが、同時に、物凄く短気な癇癪持ちでも有名だったらしい。
短期は損気だ。
例えば、ガリレオ=ガリレイはどうだろう。
「それでも地球は動いている」で有名なこの科学者は、旧弊で腐敗しきった中世ヨーロッパのキリスト教権力によって、その科学的功績を歪められ、白紙撤回させられた悲劇の天文学者として知られる。
と、同時に、中世のバチカンが如何に横柄で、客観的な事実に対しても、それを頑として認めず、相変わらず聖書を振り回して人々の知的自由を束縛していたかの歴史的な証拠としてよく槍玉に挙げられる。
しかし、事実はそう単純ではないみたいだ。
ガリレオを跪かせた当人、教皇ウルバヌス8世は元々ガリレオのパトロンであり、友人だったという。
さらに、非プトレマイオス的な(つまりコペルニクス的な地動説)を『数学的』に教える事は当時も認められていた。ただ、それを神や天地創造と結びつけるのはご法度とされていた。勿論、バチカンの権威に関わるからである。
さて、バチカン的な権威というのは当時、とてつもなく強大なものだった。世俗的な権威では勿論、広大な土地を所有し、政治に干渉する事さえできた。しかし同時に、とてつもなく脆いものでもあった。教皇には、王権の様な血の繋がりが無く、選挙で選ばれた。つまり、バチカンの中で生き残るのに必要なのは政治力だった。
バチカンは体裁を重んじる。トップの教皇なら尚更である。
だがそれに反抗する男がいた。
我らがガリレオである。
ガリレオは『天文対話』を発表。
その中で地動説を披露した。
しかし、その発表の仕方が如何にも不味かった。
もう一度言うが、バチカンは地動説の提唱自体を禁止はしていなかった。
平たく言えば、形而上学的な議論と、実際の科学的な議論は別モノであって、教会の権威を傷つけない限りはこれを許していたのだ。つまり一般的に思われているほど、中世のバチカンは科学に狭量だった訳では無いようなのだ。
なのにガリレオは教会に対して挑発的とも言える内容で『天文対話』を発表してしまった。
具体的に言えば、作品中に出てくる『シンプリチオ』(頭の中が単純=シンプル)という登場人物をどうやら教皇自身をモデルにしてしまったらしい。
この、バチカンという政治家集団のお偉いさんを刺激したのが不味過ぎた。
ガリレオ的には、ウルバヌス8世がパトロンであり友人でもある事で大目に見て貰えるという腹積もりもあったのかもしれない。
が、コケにした相手が悪過ぎたらしい。ガリレオは軟禁生活を強いられる事になる。
つまり、ガリレオは反科学の総本山であるバチカンによって無理やり自説を捨てさせられた、というよりは、
割と科学には寛大だったけども、権威を傷つける人間には容赦しなかった権力者たちによって社会的に抹殺させられたというのが本当なのかもしれない。
ガリレオは性急過ぎた、というのが専門家の間での意見でもあるらしい。
『天文対話』をもっと穏便な書き方をしていたら。或いは、バチカンに対して根回しを十分に怠らなかったら、軟禁生活を強いられるような事は無かったかも知れないという訳である。
えー、半分はガリレオも悪い、と。
ガリレオ=ガリレイ、歴史に名を残す偉大な人物ではあるが、同時に、物凄く短気な癇癪持ちでも有名だったらしい。
短期は損気だ。
知らない人はぐーぐる先生に聞いて見て。
www.google.co.jp/search
さて、わたしの親戚で明石に住んでいる人がいるのですが、天気の良い日なんかは、そこの家の庭からこの巨大観音像の姿が見えるんです、ええ。
そうでなくてもわたしの父方の実家は徳島ですから、昔明石海峡大橋が無かった頃は、フェリーで淡路経由で里帰りな訳ですよ。
すると通るんです。
この巨大観音像の近くを。
子供心ながら印象に残る訳ですよ、やっぱり。
でも中がどうなってるとか全然知らなかったから、今になって改めて調べると…うわぁやっぱすごいなこれ!
www.google.co.jp/search
さて、わたしの親戚で明石に住んでいる人がいるのですが、天気の良い日なんかは、そこの家の庭からこの巨大観音像の姿が見えるんです、ええ。
そうでなくてもわたしの父方の実家は徳島ですから、昔明石海峡大橋が無かった頃は、フェリーで淡路経由で里帰りな訳ですよ。
すると通るんです。
この巨大観音像の近くを。
子供心ながら印象に残る訳ですよ、やっぱり。
でも中がどうなってるとか全然知らなかったから、今になって改めて調べると…うわぁやっぱすごいなこれ!
いきなりこれだ。
私は自重しない。死ぬ時は前のめりと決めている。
さて、冲方丁は私の大好きな作家のひとりである。
その作家がハウツー本を出したのなら買うだろう。ファンとして当然だ。
例えば、菊池秀行先生がハウツー本を出しても私は買うにきまってる。何故なら、如何にすればあの突拍子も無く奇妙奇天烈な設定をこね繰り出してくるのかはファンとして非常に気になる事であり。その謎の発端を解明する鼻薬にでもなるのなら手を出さずにいられないのは自明だからだ。
ハウツー本の類いは三島由紀夫なんかも出版している。しかし、三島由紀夫はハウツー本片手に小説を書く様な人間は軽蔑する類いの作家であったのだろうか、肝心の創作論には殆ど触れず、『お前ら書く前に、読む方がなってないよ』とばかりに読者を引っ掻き回しているだけである。うん、面白い。
冲方先生の書いた本書は、三島御大の様に読者に対して失礼ぶっこきまくるような事はしていない。
むしろ、逆。
『小説を書く』という事は単なる技術に過ぎず、世間一般がこの技術を習得する事により、文芸分野の裾野が広がり、作家も読者もより幸せになれると説いている。
それはまぁそうかもしれない。同じ道の人間は多いに越した事は無い。
とは言え、この本を一読したらいきなり一冊本を書けるかと言えばそうではない。世の中そんなに甘く無い。当たり前だけど。
与えられるのは断片的な技術だけだ。
しかも世間一般の人間が考える様な『巧い文章のテクニック』ではない。
もっと抽象的な『どうすれば頭の中の観念に実態を与えてストーリーとして活用できるか』という方法論である。
ここに私は違和感を覚えた。
たぶん、恐らくだが、小説を書きたい人間がまず第一に悩むのは『テクニック』なのだ。
どうすれば巧みに情景を描写できるか。或いは、感動を与えられるのかが主要なのだ。たぶんね。
そうじゃない。私はまさに『どうすれば頭の中の観念に実態を与えてストーリーとして活用できるか』を知りたいんだという人には本書はお勧めできると思う。しかしそのレベルに達してる人間というのは、己の方法論というのを既に身に付けている場合も往々にしてある(自覚してない場合もあるけど)ので参考程度にしかならないかもしれない。
でもって、『テクニック』が何なのかを知りたければ作文教室に行くのが手っ取り早いんじゃないか、というのが私の率直な意見なのだ。うん。
この本の最大の見所。エッセンスは71頁からの数頁に渡って凝縮されている。
すなわち『創作の三項目』『小説の五項目』『執筆の六段階』である。
なんかもうこの名付け方がメチャクチャかっこいい。この点でやはりウブコックは只者では無い。
創作の三項目は、知識・技術・感性。
小説の五項目は、主題・世界・人物・物語・文体。
執筆の六段階は、能書き・種書き・骨書き・筋書き・肉書き・皮書き。
『創作の三項目』『執筆の六段階』は実際の本の説明に譲るとして、面白いのは『小説の五項目』。
まずテーマありき。そして世界があり、その中の人物がいて、物語を織りなす。
文体――つまりは、『文章のスタイル』という意味だろう――が底辺になってるのが興味深い。
やはり文章のスタイルというのは、読者とのインターフェース的な側面が強いのだ。いわば『ガワ』の部分。だからたぶん、小説、というか、モノを書こうとする人間は最初に『文章のスタイル』を気にするのだろう。
気持ちは分かる。けどやっぱりそれは罠なのだ。文体は所詮、外見にしか過ぎない。
例えば、冲方先生の初期長編「ばいばいアース」は『主題』『世界』に重きが置かれている。
そして、ハイデガーの「存在と時間」を読んで感銘を受けて何故かそれでチャンバラをしようとしたのが「ばいアス」なのだ。なんかもう凄いよね。
「ばいアス」ではファンタジックな世界が、それはもう緻密に描写されている。独自の設定。独特の世界観のオンパレードである。そこにテーマ(存在と時間)が加わって、それに沿う形で人物が物語を紡いでいる。文体はもう完全に二の次である。
逆に「マルドゥックヴェロシティ」以降、「スプライトシュピーゲル」や「オイレンシュピーゲル」にも採用され、作品を特徴づけている=や/を多用した文体は、十年後も通じる小説を書くために必要だったからと説明されている。
読み難いとか訳ワカンネと批判されてもどこ吹く風。普通の文体ならば読んでくれたであろう読者もばっさり切り捨てての大決断。いやもうねこういう新しい事をやるのは凄いと思うよ。後続が真似しても二番煎じになるだけだし。
実際、この新型ウブコック文体というインターフェースは、物語という上位レイヤーに加速感を与える事に多いに成功している。「ばいアス」時代の細かいけどもまどるっこしい書き方では、不可能な芸当だろう。
恐らくは、速度の必要な『物語』に応じて生まれた『文体』なのだろうと思う。(文体が物語を生んだとも考えられるが)
でも『文体』が『人物』や『世界』や『主題』を生むとは思えない。
そういう意味でもウブカタ式の『小説の五項目』は、核心を捉えていると思う。
さて、面白いのはこの式を二次創作に当てはめてみる場合である。
二次創作なのだから、少なくとも『世界』『人物』はほぼ固定されている。
となると変数は『主題』『物語』『文体』である。
いや、『主題』は緩く制限されている可能性もある。となると、必然的に自由に動かせるのは『物語』と『文体』だけだろうか?
無論、何の二次創作をするかによってこの変数の限界値は変わってくるだろう。
あえて『世界』『人物』など固定されている数値を動かして見ても面白い。
どうでしょう。
「冲方丁のライトノベルの書き方」、面白い本だとは思いませんか?
私は自重しない。死ぬ時は前のめりと決めている。
さて、冲方丁は私の大好きな作家のひとりである。
その作家がハウツー本を出したのなら買うだろう。ファンとして当然だ。
例えば、菊池秀行先生がハウツー本を出しても私は買うにきまってる。何故なら、如何にすればあの突拍子も無く奇妙奇天烈な設定をこね繰り出してくるのかはファンとして非常に気になる事であり。その謎の発端を解明する鼻薬にでもなるのなら手を出さずにいられないのは自明だからだ。
ハウツー本の類いは三島由紀夫なんかも出版している。しかし、三島由紀夫はハウツー本片手に小説を書く様な人間は軽蔑する類いの作家であったのだろうか、肝心の創作論には殆ど触れず、『お前ら書く前に、読む方がなってないよ』とばかりに読者を引っ掻き回しているだけである。うん、面白い。
冲方先生の書いた本書は、三島御大の様に読者に対して失礼ぶっこきまくるような事はしていない。
むしろ、逆。
『小説を書く』という事は単なる技術に過ぎず、世間一般がこの技術を習得する事により、文芸分野の裾野が広がり、作家も読者もより幸せになれると説いている。
それはまぁそうかもしれない。同じ道の人間は多いに越した事は無い。
とは言え、この本を一読したらいきなり一冊本を書けるかと言えばそうではない。世の中そんなに甘く無い。当たり前だけど。
与えられるのは断片的な技術だけだ。
しかも世間一般の人間が考える様な『巧い文章のテクニック』ではない。
もっと抽象的な『どうすれば頭の中の観念に実態を与えてストーリーとして活用できるか』という方法論である。
ここに私は違和感を覚えた。
たぶん、恐らくだが、小説を書きたい人間がまず第一に悩むのは『テクニック』なのだ。
どうすれば巧みに情景を描写できるか。或いは、感動を与えられるのかが主要なのだ。たぶんね。
そうじゃない。私はまさに『どうすれば頭の中の観念に実態を与えてストーリーとして活用できるか』を知りたいんだという人には本書はお勧めできると思う。しかしそのレベルに達してる人間というのは、己の方法論というのを既に身に付けている場合も往々にしてある(自覚してない場合もあるけど)ので参考程度にしかならないかもしれない。
でもって、『テクニック』が何なのかを知りたければ作文教室に行くのが手っ取り早いんじゃないか、というのが私の率直な意見なのだ。うん。
この本の最大の見所。エッセンスは71頁からの数頁に渡って凝縮されている。
すなわち『創作の三項目』『小説の五項目』『執筆の六段階』である。
なんかもうこの名付け方がメチャクチャかっこいい。この点でやはりウブコックは只者では無い。
創作の三項目は、知識・技術・感性。
小説の五項目は、主題・世界・人物・物語・文体。
執筆の六段階は、能書き・種書き・骨書き・筋書き・肉書き・皮書き。
『創作の三項目』『執筆の六段階』は実際の本の説明に譲るとして、面白いのは『小説の五項目』。
まずテーマありき。そして世界があり、その中の人物がいて、物語を織りなす。
文体――つまりは、『文章のスタイル』という意味だろう――が底辺になってるのが興味深い。
やはり文章のスタイルというのは、読者とのインターフェース的な側面が強いのだ。いわば『ガワ』の部分。だからたぶん、小説、というか、モノを書こうとする人間は最初に『文章のスタイル』を気にするのだろう。
気持ちは分かる。けどやっぱりそれは罠なのだ。文体は所詮、外見にしか過ぎない。
例えば、冲方先生の初期長編「ばいばいアース」は『主題』『世界』に重きが置かれている。
そして、ハイデガーの「存在と時間」を読んで感銘を受けて何故かそれでチャンバラをしようとしたのが「ばいアス」なのだ。なんかもう凄いよね。
「ばいアス」ではファンタジックな世界が、それはもう緻密に描写されている。独自の設定。独特の世界観のオンパレードである。そこにテーマ(存在と時間)が加わって、それに沿う形で人物が物語を紡いでいる。文体はもう完全に二の次である。
逆に「マルドゥックヴェロシティ」以降、「スプライトシュピーゲル」や「オイレンシュピーゲル」にも採用され、作品を特徴づけている=や/を多用した文体は、十年後も通じる小説を書くために必要だったからと説明されている。
読み難いとか訳ワカンネと批判されてもどこ吹く風。普通の文体ならば読んでくれたであろう読者もばっさり切り捨てての大決断。いやもうねこういう新しい事をやるのは凄いと思うよ。後続が真似しても二番煎じになるだけだし。
実際、この新型ウブコック文体というインターフェースは、物語という上位レイヤーに加速感を与える事に多いに成功している。「ばいアス」時代の細かいけどもまどるっこしい書き方では、不可能な芸当だろう。
恐らくは、速度の必要な『物語』に応じて生まれた『文体』なのだろうと思う。(文体が物語を生んだとも考えられるが)
でも『文体』が『人物』や『世界』や『主題』を生むとは思えない。
そういう意味でもウブカタ式の『小説の五項目』は、核心を捉えていると思う。
さて、面白いのはこの式を二次創作に当てはめてみる場合である。
二次創作なのだから、少なくとも『世界』『人物』はほぼ固定されている。
となると変数は『主題』『物語』『文体』である。
いや、『主題』は緩く制限されている可能性もある。となると、必然的に自由に動かせるのは『物語』と『文体』だけだろうか?
無論、何の二次創作をするかによってこの変数の限界値は変わってくるだろう。
あえて『世界』『人物』など固定されている数値を動かして見ても面白い。
どうでしょう。
「冲方丁のライトノベルの書き方」、面白い本だとは思いませんか?
仕切り直しの 御挨拶をば。
前のウェブ日記(ブログじゃないよ)が開設から数年経ち、私自身でさえ過去に何を書いていたか把握できていないという状況になり、また、私の趣味嗜好の変化から、もっと落ち着いて、腰を据えて文章を書けるような環境に引っ越したいという思いもあり、相成りました。
早い話、私も歳取ったと言う事だ!
もうカツカレー大盛りなんて食べられる歳じゃないんですよ。
これからは蕎麦と饂飩や御浸しや胡麻和えの世界です。
だから桐生庵。
「庵」ってのが凄くジジ臭くていい。
デザインもジジ臭さを狙いました。
左下のカエルはあれですよ。著作権云々はまぁいいじゃないか。
とりあえず、この場で取り扱うのは、文章――小説、評論からキャッチコピーに至るまで――、兎に角、文字が書いてあったら守備範囲内です。
そいつについて脳みそをこねくり回して、異界から新たな地平を覗きこむという趣旨です。誇張表現してますが。
とは言え、大体は小説。穏便にね。
前のウェブ日記(ブログじゃないよ)が開設から数年経ち、私自身でさえ過去に何を書いていたか把握できていないという状況になり、また、私の趣味嗜好の変化から、もっと落ち着いて、腰を据えて文章を書けるような環境に引っ越したいという思いもあり、相成りました。
早い話、私も歳取ったと言う事だ!
もうカツカレー大盛りなんて食べられる歳じゃないんですよ。
これからは蕎麦と饂飩や御浸しや胡麻和えの世界です。
だから桐生庵。
「庵」ってのが凄くジジ臭くていい。
デザインもジジ臭さを狙いました。
左下のカエルはあれですよ。著作権云々はまぁいいじゃないか。
とりあえず、この場で取り扱うのは、文章――小説、評論からキャッチコピーに至るまで――、兎に角、文字が書いてあったら守備範囲内です。
そいつについて脳みそをこねくり回して、異界から新たな地平を覗きこむという趣旨です。誇張表現してますが。
とは言え、大体は小説。穏便にね。